民青同盟の仲間とともにボランティア活動をおこなっている首都圏の大学生のAくんからよせられたレポートの一部を紹介します。
支援に入った魚加工工場の従業員75人のうち1人は死亡、1人は行方不明。大半は解雇せざるをえず、残りの休業手当てを受けているメンバーとともに作業をしています。
「おばあちゃんが津波にのまれた」
「家の一階は全て流された」
「車に乗った瞬間津波がきた。目一杯アクセル踏んで逃げたが、あと10秒遅かったら死んでいた」など、全員が被災者です。
十メートル以上(?)の津波に飲み込まれた巨大な2つの冷凍庫の中の魚を、フォークリフトで表に出し、手作業でビニールや紙を取り除く。より分けた魚はトラックで運んで海上投棄します。
工場で働いている人に話を聞きました。
「石巻は、地震で76センチ地盤沈下。家は、満潮時に1日2回も冠水する。すみ続けられるのか…」
「直接魚の被害だけで5~6億円。工場まるごと壊れたから備品含めていくらになるか。自転車操業だから、今回みたいに止まってしまうとおしまいだ」
「工場は機能しなくても、リースが五年残っている機材がある。地震は保険の対象外。どうすればいいのか」
「政府は、中小企業の支援の全体像を早くきめてほしい」
「震災で失業や休業した人への援助の充実を」
…どれも、非常に切実です。
被災者を救うには、国の役割が決定的。
制度要求を聞いていると「若いのに、日常的にやってるの?」と聞かれます。
「東京の民青では、被災地出身学生の声を文科省に届けました」というと、「すごいね!」と、さらに話を聞くことができました。
魚加工工場がある臨海部の被害は深刻です。
津波と地盤沈下で、水没した部分も。
太い鉄骨が、針金のようにグニャリとまがり、トラックが二階に突き刺さっている。一階部分は例がいなく壁が吹き飛ばされ、三階のガラスが割れているところも。
どこを見渡しても瓦礫の山。ひっくり返った車をみても、驚かなくなった自分にビックリします。40日たってもこの状態。
しかし…こんなところでも、桜は満開になるんですね。
作業の終わりに、工場の責任者の方と「お世話になりました。がんばりましょう」と固く握手。
「ありがとうございました。私らも、またがんばりますから」と、目に涙を浮かべながら、力強くいってくれました。
膨大な被害の中、自分たちにやれることは、ごくわずか。
「被災地で、自分の非力に負けない」…大学で現地報告をしてくれた、平和委員会の方の言葉が頭の中に響きます。
支援センターには、魚工場の他に、民家や学校、旅館などの片付けや掃除など、次々に要望がよせられ、全国からのボランティアが対応しています。
要望の多くは、連携をとっている共産党の石巻市議会議員を通じてよせられたもの。市議自身も被災し、三人はセンターの一角を事務所にしながら、支援活動に奔走しています。
僕たちボランティアは、気持ちはあってもつながりがありません。
普段、地元に密着してつながりを深めながら活動している共産党。こういうときこそ、頼りになりますね。