「しんぶん赤旗」 2011年09月20日付
震災で延期されていた岩手県議選(11日投・開票)で日本共産党は念願の複数議席を獲得しました。有権者11万3千人の一関区(定数5、立候補7人)は、投票者数が前回から7千余減ったなかで高田一郎候補(52)が、2709票増の1万1951票(得票率16・5%)を得て3位で当選し、同選挙区史上初の党県議が誕生しました。3人を擁立した民主党は1人が次点で及ばず、県議会で半数を割りました。
11日午後9時少し前。岡田もとみ一関市議を皮切りに、選挙事務所にいた人たちの携帯電話がいっせいに鳴り響きました。投票箱のふたが閉まって1時間足らずでNHKが高田候補の当確を報じたのです。「よかった。うれしい」「頑張ったかいがあったわ」と電話がかかってきます。
両磐(りょうばん)地区の三枚山(さんまいやま)光裕委員長は、早すぎる「当確」に驚きつつ「全党員が立ち上がれば勝てない選挙はない」との思いをかみしめていました。県議選は、8割の党員がなんらかの活動に立ち上がり、後援会員を中心に千人を超える人たちが支持を広げる担い手になったのです。
4年前の前回県議選は、一関市議だった高田さんを擁立して9200票余を得たものの、200票差で涙をのみました。終わってみれば「勝てる選挙だった」と、支部からだされた声。地区常任委員会は、4年後に、同じ得票目標を必ず実現するにふさわしい活動を追求してきました。
その先頭に立ったのが候補者の高田さんです。週5日、雨の日も雪の日も街頭から党の政策を訴えました。支部の人たちと一緒に対話した有権者は1万人を超え、党内外の人々に共感を広げました。
党派を超えて
県議選準備がいよいよヤマ場にさしかかった3月11日に東日本大震災が起きました。地区委員会も高田さんも、これまでにない事態のなかで新たな活動の開拓、挑戦が続きます。救援活動と選挙準備をどう両立させるのか。葛藤もありましたが、「被災県の党の存在意義を示そう」と、被災者の苦しみに寄り添った救援に全力を注ぎます。
高田さんは、停電、断水が続いた地震直後は、宣伝カーに水を積んで住民に届けました。4月7日の震度6弱の余震で内陸部の一関市内では、170軒が全半壊します。多くの住民が避難所に身を寄せるなかで、議員、支部の人たちとともに、市民の安否を確認し、要望を聞いて回りました。津波で被災した沿岸部にも何度も足を運びました。
両磐地区委員会は、大津波で大きな被害を受けた岩手県気仙地区だけでなく、震災直後には地区事務所前を通る気仙沼街道が唯一のルートだった宮城県気仙沼市委員会にも物資を届け、仮事務所設置で支援活動を強めました。5月の連休以降は、地区の敷地内にある100畳のプレハブが、青年ボランティアや全国からの支援の拠点になり、のべ1500人以上の党や民青同盟のボランティアが訪れました。
原発事故で、同市の牧草から放射性セシウムが検出され出荷停止の事態に及ぶと、市民の不安は一気に広がりました。高田さんは、東京電力に農家仲間と乗り込んで、農業被害の全面賠償を迫りました。その姿はテレビでも映し出され「共産党はたいしたもんだ」と評判になります。
子育て世代の不安に応えて150カ所で放射線を測定し、結果を知らせたビラは反響をよびました。保育園を経営するお寺からも依頼されて測定すると、その活動を見た住職の妻が個人演説会で急きょ弁士にたって高田候補を応援。20代の母親が「子どもの安全を守るために、なにかできることはないか」と地区委員会を訪ねてくるなど、これまで党とあまり接点のなかった世代との交流が広がりました。
被災者の命、生活再建第一の復興、「原発ゼロの日本」を堂々と訴える姿は住民の信頼を高めました。TPP(環太平洋連携協定)や、県立病院統廃合問題の訴えも住民の共感をよび、党派を超えた響きあいが各地ですすみました。
ある農業団体役員を訪ねると、「自民党、民主党の泥仕合は、幼稚園よりひどい」と語り、意気投合。「東電にきちんとものがいえる」「TPP反対は高田だけ」という声がどこでも聞こえてきました。
自治体の幹部や他党派議員の家族が高田支持を表明し、3人の元市議は、法定ビラに高田さんに期待する談話を寄せました。その一人は、高田さんの当選後、「いま、市民の目は政権党にたいする不信感がある。共産党がおっしゃっていることは立派。一歩ずつ日本を改革してもらいたい」と語っています。
3中総を力に
県議選で、地区委員会は、全党員の活動参加を土台に、結びつきを生かし広げる支持拡大と、担い手を増やす活動に徹底してこだわりました。
延期された県議選の日程が決まり、「復興・救援も、選挙も」と仕事が目の前で山のように積まれていくなかで、三枚山地区委員長は、「いざ、鎌倉というときに力を発揮できる党をつくり、どうしても選挙に勝ちたい」と自らに問いかけていました。
そんなとき第3回中央委員会総会(7月4日~5日)が開かれます。国難のもとでの情勢の変化や、いっせい地方選挙の教訓から「結びつきを生かし広げる」「党の自力をつける」教訓を鮮明にし、全党員に党の値打ちと対話に踏み出す勇気をくれた3中総決定を、「選挙に勝つにはこれしかない」と真正面から受け止めました。
3割の支部は毎週支部会議を開いていますが、長期に開いていない支部も3割あります。地区常任委員会は、困難な支部の党員一人ひとりの家に何度も足を運び、日程を調整するなど援助に心を砕き、7月31日までに全支部が討議を開始しました。
8月は、これまで3割台にとどまっていた決定の読了・徹底の5割突破をめざします。「読了が過半数まですすめば党に変化が起こってくる」。第24回党大会2中総の報告を励みとしました。
8月下旬から全国の援助者もかけつけ、3中総と党創立記念講演ダイジェストDVDやポータブル再生機をもって、「視聴して、知り合いに支持を広げてください」と、繰り返し、丁寧に訪問・対話を重ねました。三枚山地区委員長も最後の2日間、支部会議に参加していない支部の党員やさまざまな事情で地区直属になっている党員の名簿を前にして訴えぬき、読了・徹底は、投票日の11日までに53%となりました。
後援会員1.8倍
「担い手を広げる」活動は、後援会ニュースを活用して新しい境地を開きます。後援会員は最終的に前回の1・8倍の9千人を超えました。
8千枚の選挙はがきは、後援会員にも送り、そのうち9割以上に声をかけると、次々に「支持を広げる」と応えてくれました。
担い手を広げる努力で、最終盤の志位和夫委員長の街頭演説には、1千人が参加しました。
告示後の6日、悲しい出来事がありました。一関市で最初に県議に挑戦し、4期市議を務めた小野寺永子さんが亡くなったのです。保育園理事長として、放射能汚染に子どもたちの未来を憂える母親の姿に胸を痛め、「原発ゼロ」の社会へ、なんとしても高田さんをと、連日奮闘していました。この4年間、地区常任委員を経験し、地区党組織を長い歳月にわたって支えてきた4人をはじめ、少なくない党員が亡くなっています。
涙の一致団結
三枚山地区委員長は8日、選挙闘争本部長として亡くなった人たちの遺志を受け継ぎ、地区党組織の悲願である両磐初の県議席をかちとり、新たな歴史をつくろうと、奮起をよびかけました。訴えは涙とともに党員の心に火をともし、対話数は、投票日に向かってこれまでになく尻上がりに伸びていきました。
大きな課題も残しました。菊池幸夫・地区副委員長は、「大震災以後、日刊紙、日曜版読者とも毎月前進させ、告示日以後、1人を党に迎え、日刊紙2人、日曜版8人の読者を増やしたのは、わずかといえ地区にとって画期的でした。しかし、どちらも前回比9割で、自力をつけるのはこれからが勝負です」と語ります。
同地区は、県議選後、日を置かず旧自治体ごとに支部長会議を開き、選挙総括と「党勢拡大大運動」の目標を決め、直ちに足を踏み出すことを意思統一しています。
7日の旧一関地域の地区役員・支部長・地域選対役員会議に参加した高田さんは熱い思いを訴えました。「次の4年間、公約実現と党の自力をつける課題に全力を尽くします」。選挙に勝って、党の自力をつける「好循環」をつくりだす新たな挑戦が始まりました。